情報誌「ダイバーシティ21」2021年夏号(VOL.45)(2021/6/25発行、全4ページ)

【均等法&財団設立35周年記念インタビュー】

 21世紀職業財団は男女雇用機会均等法施行年の1986年に発足し、お陰様で設立35周年を迎えました。
 均等法施行前後に入社し、キャリアを歩まれた“パイオニア”世代の女性たちからのメッセージを4回シリーズでお届けします。



<第1回>山科裕子さん
     オリックス株式会社 グループ執行役員、
       オリックス・クレジット株式会社 執行役員会長

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※所属・役職はインタビュー当時のもの(聞き手:伊岐典子(21世紀職業財団会長))

「やりたいことは自分で道を拓いていこうと思ったのを今でも憶えています」

――山科様は、まさに男女雇用機会均等法(以下、均等法)スタートの1986年に入社されたのですね。

山科さん:入社した年に均等法が施行されたので、就職活動はその前年の1985年です。大学では男性も女性もなく同じように学んできたのに、就職活動を始めた途端、男性には多くの求人があって、女性にはほとんどない。その上、女性は自宅通勤者を優先するという企業も多く、私のように下宿している地方出身者が冷遇されていた時代です。業種を選べる状況ではなかったので、四大卒の女性を募集している会社はほとんどまわりました。

 そんな中で、オリエント・リース(現オリックス)は、リース業だけではなく貸付や不動産等、事業を多角展開していて、当時から女性の採用や中途採用に積極的でした。私は長く働き続けたいと思っていましたし、不動産にも興味を持っていたので、そんな柔軟な会社であれば、人に対してもフレキシブルなのではないのかと興味を持ちました。会社説明会に参加してすごいと思ったのは、1982年から大卒の女性を営業職で採用していたことです。説明会でその先輩女性たちから直接、営業の話を聞くことができたことも大きくて、営業を希望して入社しました。

――希望通り不動産営業の部門に配属されたのですね。同期の女性は何人ぐらいでしたか。

山科さん:女性は全国で76名が採用されました。男性は60名弱ぐらいでしたから、女性のほうが多かったです。というのも、1986年の採用は、女性だけがいわゆる地域限定型で転勤のない総合職でした。そのため、全国の営業所で女性を採用したからだと思います。男性は全員が全国転勤型でした。翌年かは女性も全国転勤型にエントリーができるようになりましたが、実際に全国転勤型を選択する女性は数名でした。今も地域限定型採用は行っていますが、ここ2~3年の採用では、ほとんどの女性が全国転勤型を希望するようになりましたので、この35年で意識が変わってきたと感じますね。

 入社後に「2~3年の実務経験を積めば全国転勤型の総合職に転換する道も拓けます」と人事から説明を受けました。「よし」と思って、男性の先輩にそのことを報告したら、「山科さんが全国転勤型の総合職に変わっても、長く勤めるなんて誰も思っていないよ」と言われたのです。その場は笑顔でスルーしたのですが、私が思っているほど均等法は進んでいないのだなとショックでした。まだ半人前でしたから、まず目の前の仕事をしっかりやって、やりたいことは自分で道を拓いていこうと思ったのを今でも憶えています。

 そんなことがありながらも仕事は面白くやりがいを持って働いていたのですが、1年も経たないうちに、いきなり社長室秘書課への辞令を渡されました。当時の宮内社長の秘書を務めることになったわけです。考えてみれば、異動が決まる前に同世代の女性6、7名が集められ、秘書課長を囲んだ座談会に呼ばれていました。そのときは座談会の意図もわからず、思っていることを自由に発言していたのですが、それが秘書課への異動のきっかけになったのだと、配属されたあとに知りました。

――人物選定の機会だったのですね。

山科さん:課長には「君が一番タフで辞めそうになかった」と言われました。それまでの秘書課の仕事は男女で役割が異なっていたのですが、社長は女性秘書にもスケジュール管理や調整をさせたいというお考えだったようです。秘書課を異動先として考えたこともなく、せっかく営業も面白くなってきたところでしたが、そのときに課長から「仕事というのはやる前から好き嫌いを言うものではなくて、どんな仕事でもまずやってみて。ある程度ものにできて次に進みたいと思ったら、僕が責任を持って交渉する」と言われたのです。自分にオファーをいただけるということだけでもありがたいので、3年ぐらいはやってみようと思いました。“まずやってみよう精神”は、この最初の異動で培いました。

 社長の部屋の整理も私が担当で、慣れない生け花もやってみたのですが、社長に「山科さん、花が倒れているよ」と呼ばれてしまったこともありましたね。ですが、スケジュール管理をしながらトップの動きを見るというのは、会社がどう動いているかを横から見ている感じで、とても勉強になりました。

「とにかく強みを身に付けられるように自分を磨こうと思い、社会人大学院へ」

――その後も何度か異動をされる中で、ご自分が一段階レベルアップするというか、転機となるような経験が何回かおありになったのではと思いますが。

山科さん:35年の社会人生活で11回の異動を経験しました。

 その中で、転機のひとつといえるのが、30歳の時に社会人大学院で学んだことです。当時総合計画室から社長室企画チームに移って経営企画部門でのキャリアを広げていたところでしたが、企画チームは非常に有能で専門性を持って働いている強者ばかりでした。私は一番若くて、先輩たちに比べると何もできないし、ここでどうやってチームの力になればいいか、とすごく悩みました。とにかくどこかで強みを身に付けられるように自分を磨こうと思い、筑波大学大学院企業法学専攻の修士課程で2 年間、仕事を通じて関心を持ったコーポレートガバナンスを中心に学びました。

 その時、会社の枠を超えて外に出たことがとても大きな経験になりました。同期生は年齢もバックグラウンドも様々でしたが、仕事を持ちながらも学びたいという同じ思いで通っていたので、卒業までのハードな2年間を支え合いながら頑張れました。

 その後、広報・IRチームへ異動し、課長に昇進しました。

――パートナーが海外赴任されたのもその頃ですか。

山科さん:父が亡くなり、兵庫で一人暮らしとなった母の介護とメーカー勤務の夫がドイツへ海外赴任となった時期が重なってしまい、(東京とドイツを行き来しながら)週末は兵庫に帰省という生活を10年間続けました。

――無理がたたって、少し会社をお休みされたこともあったとか。

山科さん:私はわりとポジティブなので、大したことはないと思っていたら、結構ダメージが大きくて、会社に戻れるまで2カ月弱かかりました。「仕事を頑張るのはいいけれども、自分の体をちゃんとケアできるのは自分だけなのに、自分の体にすごく失礼なことをしているんだよ」と医者に怒られて、すごく反省しました。

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